いつもこころに太陽を。

念願の「書くこと」を仕事に。言葉の力でもっとたくさんの人を幸せに出来たらいいなと思っています。

愚痴は自分への呪文になる。

昔は、本当に愚痴が多かったんです、私。
 
「愚痴りだしたら止まらない」って職場の先輩にも言われたことがあります。確かに、常に愚痴ってた。
 
その頃は、「だって、愚痴らせるような上司が悪いんじゃ!」と思っていたのですが、今にして思えば私の器が小さいだけでした。
 
それがわかっただけでも、少し進歩できたのではないかと思っています。
 
愚痴は自分への呪文になってしまうよ!と、愚痴っている人に全力で言いたい。
 
自分の口から吐き出す言葉は、そのまま自分へのブーメランとして戻ってきます。自分の耳から、愚痴をずっと聞いているのだから、人に愚痴をこぼされているのと何ら変わらないのです。
 
しかも愚痴は、誰も幸せにしない。
 
愚痴をこぼして、いっときスッキリするならいいのですが、でもそれって、スッキリしているのは自分だけ。聞かされている方はたまったもんじゃないですね。
 
若い頃はわかりませんでしたが、今ならわかります。
 
結局、愚痴をこぼしているだけじゃ、何も変わらない。スッキリしたような気になるけど、実はしてない。だけど、文句を言うと「自分が正しい」と思えるから、何となくスッキリした錯覚を起こしているだけだと思う。
 
女性は解決策を求めない生き物だから、「そうだね」って聞いてあげればいいってよく言われますが、どうなんだろう。同意はしてほしいけど、解決策を求めていないわけじゃないと思うのですが、どうでしょう。
 
解決できれば、その方が良くない?でもできないんだな、そう簡単には・・・
 
だから、愚痴りたくなるんですね、人は。
 
でも、愚痴は自分にも、周りにも、プラスにはならないから、基本的にはやめた方がいいです。
 
そりゃ、愚痴りたいときだってありますよ、人間ですから。
 
何でよ、どうしてよ、って文句を言いたいことはあります。今でも、毎日のようにあります。
 
まだまだ、人間の器が小さいもので。
 
だから、愚痴をこぼしてしまったら、それは仕方ない。だけど、せめて愚痴の後は、いい言葉で締めくくりましょう。
 
「今日はこんなことがあったけど、明日はきっといい日になる。」
 
そんな風に、プラスの言葉で終わりにしよう。
 
終わり良ければすべて良しです。
 
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血の繋がりはあまり関係ない

小学生の男の子が殺されてしまった事件。なんとも痛ましい。

お母さんの気持ちを考えると本当にいたたまれません。

 

しかし解せないのは盛んに「義父」とか「血の繋がりがない」という報道。

 

世の中には、血の繋がらない親子なんてごまんといるでしょうに。なんだか、義理の関係だから、連れ子だからこんなことが起きたというような方に持っていきたいのだろうか。

 

確かに虐待の問題でも、若いお母さんが離婚して一人で子供育てていて、同居している男が加害者になって、というケースが多いから、そう言いたくなるのもわかる。

 

他人の子供と一緒に暮らすことが簡単じゃないこともわかる。

 

じゃあ血が繋がっていれば親子関係はうまくいくのかい?そんなことはないと思うよ。

 

うまくいっている親子だって色々な葛藤の中で、お互いを理解しようって歩み寄って、すごく努力してその関係を築いているわけでその努力を怠ったら、血のつながりだけで親子関係なんて築いていけないんだよ。

 

まだ背景もわからないうちに、簡単に「血の繋がりがなかったから」というような方向に持っていくのはどうなんだろうと思う。

 

それでは子連れ再婚をして、一生懸命親子になろうとしている人たちに失礼な気がする。

血が繋がっていようがいまいが、お互いに努力して頑張っていかないと人間関係なんて築けないの。

 

その努力をしなかったがために、崩壊している家庭なんていくらでもあるじゃない。崩壊するのと我が子を手にかけるのは天と地の差があるけれども、血の繋がりの有無だけで犯罪が起きるようなことを言ってはダメだよ、と思うだけ。

 

 

 

これが老いていくということか。親の様子を見て思うこと。

私の父は非常に頭の良い人だと思います。賢いです。子供の頃からとても尊敬しています。
 
いわゆる勉強ができるだけの頭でっかちではなくて、考えることを重視する人でした。
 
小さい頃から、わからないことを聞いても「自分で調べなさい」と言われました。答えを教えるのは簡単だけど、自分で辞書を引くなどしないと覚えないから、と。
 
政治の話などもいろいろしてくれました。子供には難しいからというのではなくて、情報を集めて、自分がどう考えるのか?が大事なんだと。
 
ですから、将来は専業主婦になってもいいし、働いてもいいし、どんな生き方をしてもいいけど、選挙には行きなさいとか、政治や経済と無縁では生きていけないから、社会とつながりをしっかり持って自分の頭で考えなさい、と言われて育ちました。
 
その父は今72歳。今年に入り心筋梗塞で倒れたこともあり、ちょっと気が弱くなってしまっています。
 
また、ここ数年腰の手術を繰り返し、満足に歩けない状態が続いているため、今年介護認定を受けました。
 
まあ、体のことはどうにかなるって思ってました。
 
今は病院以外の外出ができないけど、きっと良くなる。
 
そうしたらまた、食事に行ったり、花の写真を撮りに行ったりできると。
 
体のことはきっとどうにかなる。
 
しかし、心の方はどうだろう。
 
先日、ガラケーからスマホに買い替えをしてあげました。歩けないので、妹夫婦が車に乗せてお店まで行き、買い替えをしたのですが、どうにもうまく使いこなせていないところがあって。
 
以前だったら、わからないことは自分で調べる人でした。家にパソコンもありますから、調べようと思ったら大抵のことは調べられます。
 
しかし妹に電話をしてきて、スマホの調子が悪いからソフトバンクに連れて行って欲しいと。
 
ソフトバンクに電話をしたけれど、個別の事象には電話では答えられないと言われたとか。
 
歩けないから店にはいけないのですし、話を聞いてみるとそんなに大したことはないことだと思ったので(契約ギガ数に近くなって警告が出ているだけ)、大したことはないから放っておいていいよ、と妹が言っても聞き入れず、とにかく店に行きたいのだと。
 
こんなに頭の固い人だったっけ、というのがまず思ったこと。
 
それから、なんでもネットで調べられる時代、しかもパソコン使える人なのに、どうして自分で調べないんだろう。
 
父はどうしてしまったんだろう。
 
私もラインで、大丈夫だからと言いましたがなんだか納得がいかない様子。
 
仕方なく、今度無線LANルーターを買って設置してあげるから、そこからスマホにつなげばデータ使用量が減らないよ、と提案しました。
 
それもよくわからなかったみたいなので、とりあえず今は何もしないで、今度家に行ったら説明するから、ということにしたのですが、頭が固くなっていることに驚いたのでした。
 
こんなに人の話を聞かない人じゃなかったのに。大抵のことは自分で調べられるし、店員が言ったからってわからないことで引き下がる人でもなかったのに。
 
これが年をとるってことなんでしょうか。
 
こうやって、だんだん変わっていくのかな。
 
気がついたら自分もアラフィフ。こないだまでアラフォーって言ってましたけど、最近は「まだ40代だもん」と強がったりしています。自分がこれだけ年をとっているのだから、親も年をとるんですよね。
 
病気がちになり、気も弱くなっている父。
 
これからどんどん老いていくのでしょうか。
 
介護がどうのというよりも前に、親が老いていくことの現実を受け入れなければいけないなと思っています。
 

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やりたいことをやって生きていこう

子供達へ
 
人生は一度きりなのでやりたいことをやって生きていきましょう。
 
誰のためでもない、自分のために生きましょう。
 
自分を大切にできない人は人のことも大切にできません。
 
だから、自分の気持ちを大事にして、自分の頭で考えて生きていきましょう。
 
先生が言ったからとか、友達が言ったからというような理由で流されないように。
 
素直にいうことを聞くことも大事な時はもちろんあるんだけど、まずは疑ってみる。
 
それほんと?
 
本当にそれでいいの?って。
 
疑いながらやってみると、盲目的にやるよりも自分なりの考えってのがむくむく湧いてくるんじゃないかな。
 
アドバイスを聞くのといいなりになるのは違うから。
 
まずは自分の直感に従って。
 
やりたい!と思ったことを、誰に遠慮することはない、好きなようにやってごらん。
 
失敗してもいいから。
 
というか、失敗なんてないから。大丈夫。
 
もしやってみてうまくいかなかったらそれはそれ。
 
ああ、うまくいかなかったなって改善すればいいし、これは自分に向いていないんだなと分かればそれもよし。
 
どんな結果になっても、プラスしかないよ。
 
だからどんどんチャレンジして。行動して。
 
行動することでしか人生は変えられないからね。
 

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幸せのハードルを下げてみると気持ちが楽になるよ

自分が恵まれていないと感じたり、幸せじゃないと感じる時。
 
それはたいてい、他人と自分を比べている時ではないかと思います。
 
しかも、あえて自分よりも恵まれている(と思えるような)人を選んで、わざわざ比べているような気がします。
 
そして、
 
  • どうして私は〜なんだろう
  • どうしてあの人は〜なんだろう
 
と嘆いてばかりいる。
 
ベクトルが違う方向に向いてしまっているのではないかと思います。
 
そんな時こそ、もっと内側を向いて、自分自身の持っているものを見てみませんか。
 
自分が持っているものをよ〜く見る。
 
そして、持っている範囲内で幸せなことを見つけるんです。
 
私が最近よく思うのは、健康って素晴らしいなといういこと。
 
この歳になると、親が病気をすることが増えまして、いつまでも若いつもりでいるけど親も自分も確実に歳をとっているんだなと実感することが多くなりました。
 
だからこそ、健康でいるって本当にありがたいなと思うのです。
 
仕事のスキルをアップしたいとか、もっと収入上げたいとか、あれ欲しい、これ欲しいって欲望はたくさんありますよ。
 
どれも頑張ればきっとできることです。時間はかかっても。
 
でも健康って買えないです。お金では手に入らないです。
 
健康食品は買えるけど、それで健康が保証されるわけじゃない。
 
どんなに健康的な生活をしていても突然病魔に襲われることだってある。
 
だから今健康でいられること、毎日ご飯が美味しく食べられていること、仕事を普通にできること、こんなことって当たり前じゃなくて、すごくありがたくて幸せなことなんだって実感しています。
 
昔と比べて、幸せのハードルが下がってきたなと自分でも感じます。
 
自分が健康で、家族が健康で、それならどうにでもなる。
 
これが一番ありがたい。
 
そう思ったら、不満てあんまり感じません。
 
だから、もし今の境遇に不満があって、ストレスが多い人は、今自分が持っているものの中で幸せを感じられることがないかなと探してみると良いのではないかと思います。
 
お金は大事ですよ。働く環境も大事ですよ、もちろん。
 
それらが恵まれていないのに我慢をしたほうがいいと言っているのではなくて、その問題解決と心の問題はまた別のこと。
 
問題解決の方法は理性的に、理論的に考えていく必要があるけれど、日々の暮らしの中でどう幸せを感じるかは自分の心の問題ではないかと思います。
 
小さな幸せをたくさん探して、少しでもストレスフリーに暮らしていきたいものです。

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人との価値は平等でも、それぞれの能力は平等じゃないという現実

人の価値は平等だと思うし、権利やチャンスも等しく与えられるべきだと思う。
 
性別や年齢、学歴などで差別されるのではなく、何度でもチャンスを与えられる世の中になってほしいと思う。
 
でも、残念ながらそれぞれの能力は平等じゃない。これを忘れちゃいけない。
 
「平等」を声高に叫ぶ人の中には、ここを勘違いしている人が多いように思う。
 
本当の平等はチャンスの平等であって、結果の平等じゃない。
 
能力には違いがあるから、他の人と横並びに成長してくことはありえない。
 
どうしたって結果に差が出てくる。これは仕方のないことなのです。
 
だから、努力をしないといけないし、能力に違いがあるんだから、自分よりも能力のある人に追いつくには、その人の何倍も努力しないと結果なんて出ない。
 
ここで勘違いしてはいけないのは、能力がない=ダメ、悪い、ってことじゃないということ。
 
能力がない、ただそれだけ。
 
足りない分は努力や工夫で補わないといけない、ただそれだけ。
 
別に人として劣っているということではなくて、その分野に関する力が足りないから、補うべく努力が必要だということ。
 
それが認識できるかどうかで、人の成長は変わるんだと思う。
 
それがわかっている人は、自分が望む結果を出すために愚直に必要な努力を積み重ねることができるけど、それがわかっていない人は、他人と自分を比較して「どうして」「なんで」と悩んでばかりで、挙げ句の果てに人を妬んだり、足を引っ張ったりするようになるのです。
 
そうならないように、まずは人の能力は平等ではないということを理解してそこからスタートするということが大事です。
 
そして、努力しても結果が出ないことはあるし、能力差を埋められないことだってあります。
 
でもそれは決して無駄な努力ではなくて、思うような結果は得られないとしても、他に得るものがあります。
 
大事なのは人と比較して自分を嘆くことじゃなくて、あ、ここは能力足りないなと思ったら必要な努力は何かを考えることです。
 
現実を見ないと痛い大人になってしまいます。
 
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それでも私たちは生きていく

京都アニメーションの事件はニュースを見るだけで、その記事を読むだけでなぜか涙が溢れてきてしまう。
 
別に知り合いなんていないし、亡くなった方の数が多いとはいえ、日本中で毎日事件は起きている。
 
それなのに、この事件はどうにもやりきれないというか、心にぽっかりと穴が空いたような感覚。
 
なぜなんだろうと考えてみる。
 
多分、私も日々記事を書いて「作る」側にいるからなんだと思ったのです、こんなに悲しい訳は。
 
この事件は、単に大切な命が失われただけではなくて、その人たちが作ってきた作品や歴史までもが全て一瞬のうちに奪われて、全否定されたような、そんな風に感じます。
 
大事に作り上げてきたものが全て一瞬でなくなってしまった空虚感。
 
言葉にできない空虚感。
 
赤の他人の私ですらこれだけの衝撃があるのだから、身内の方、友人知人の方の衝撃は計り知れない。
 
でも・・・それでも私たちは生きていかないといけないんだな。
 
自分の生は全うしないといけないんだな。
 
それがまた虚しくもあるし、語彙力が足りなさすぎて言葉にできないんだけど、人生ってなんなんだろうって改めて考えてます。
 
こんな理不尽なこと、許されんの?と思う。誰に文句言ったらいいの?
 
神様なんているの?どこにいるの?
 
いるんだったら、どうしてこんなことすんの?
 
それでも私たちは生きていかないといけないんだな。
 
こんな世界でも。
 
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